はじめまして、AYINAのなつみです!
日本にも数多くいる在日アフリカンの方にお話を伺い、
出身国のことや実際に日本に住んでいて感じること、
そしてその方自身のストーリーについて教えていただき、今日から友達になれるくらい近くに感じてもらえるような取材をする企画。
今日から繋がるニッポンの〇〇アフリカンズ(略して「今日アフ」)
今回はシエラレオネで生まれ、現在は在日アフリカンとして
生活をしているダボさんにインタビューをしました!
Dabo Salieu(以下、ダボさん) シエラレオネのフリータウン(首都)出身で 9人兄弟の長男。ダボさんは、幼少期をシエラレオネで過ごし、15歳の時に日本へ、家族と共にやってきました。
豊かな自然に囲まれた温かな人々の国、アフリカ-シエラレオネ
アフリカの西海岸に位置するシエラレオネ共和国は、人口約765万人、
面積は日本の5分の1ととても小さな国。
一方、国内は豊かな自然に恵まれ、農産資源や海洋資源を
生かした農業・漁業が盛んに行われています。
特に、コーヒーやカカオなどの農産業は、GDPの約60%を占めています。
また、海に面した地域では美しいサンセットビーチが眺められ、
現地の人しか知らない観光スポットもあるそう。
シエラレオネの地理 出典;Google map
そんな豊富な資源や美しい絶景を有し、アフリカの秘境ともいえるシエラレオネですが、
「世界で最も寿命の短い国」だったことをご存知ですか?
シエラレオネは、世界でも有数のダイヤモンドの産地としても知られています。
しかし、1991年、その美しい資源をめぐった内戦が起こりました。
多くの子ども兵が命を落とした結果、「世界で最も寿命の短い国」となってしまったのです。
内戦では多くの命が失われ、人々の運命を左右した出来事となりました。
今回のインタビュイーでもあるダボさんも、シエラレオネの内戦を経験した1人です。
さて、今回は、このように多くの歴史と経験を持つシエラレオネで生まれ育ち、
内戦によって15歳で日本へと移住したダボさんのこれまでの歩みを、
前後編にわたりお伝えしたいと思います。
それでは、シエラレオネでの生活や、食事や文化、人々について、
早速インタビューしていきたいと思います!
シエラレオネのソウルフード!キャッサバリーフ料理
AYINA あつ
今回はお忙しいところ、ありがとうございます!よろしくお願いします!
ダボさん
AYINA あつ
早速ですが、シエラレオネで一番好きだった料理は何ですか?
キャッサバ(:cassava)料理が有名です。ご飯と一緒に食べるのが一般的です。シエラレオネの人はご飯が大好きです。1にお米、2にお米…ずっとお米!
ダボさん
AYINA あつ
似ていませんね。でも、ほうれん草を使って同じようなものを作ることができます。今日もお弁当として持ってきました!
ダボさん
AYINA あつ
特にないですね。日本でも自分で料理をします。アフリカの料理も作るのですが、無意識に醤油を入れてしまいます。日本人らしいな、と自分でも思います(笑)。
ダボさん
AYINAひでき
東アフリカではチャイの時間(仕事の合間にチャイとナンを食べる)があり、朝ごはんを食べる時間が遅いのですが、シエラレオネの食事の時間はどうですか?
食事は日本と同じ時間ですね。ただ、街では食べ物を片手に売り歩いている人がいるので、おなかがすいたらその人から買って食べたりします。
ダボさん
シエラレオネの人々は、困った人を助ける人が多い国の第5位!?
AYINA あつ
大学の授業で、人々の親切度を測るランキングで、シエラレオネが世界で5位だと習いました。本当にそうなのですか?
うん。シエラレオネの人々は欲張りではないと思います。何かしてもらったら感謝したり、恩を返したりという優しい国民性があると思います。アフリカでは珍しい風習だと思います。
ダボさん
将来はシエラレオネに別荘を建てたい!温かな国民性が大好きだというダボさん
観光地としても、人気が高まっています。人々の親しみやすさも理由の1つですが、豊かな自然も魅力の一つだと思います。
ダボさん
AYINA あつ
コットンツリーは、かつて奴隷たちが解放されシエラレオネに帰って来た時に、フリータウンの中心にあったこの木に集まりました。以降、フリータウンのシンボルとして親しまれています。
ダボさん
AYINA あつ
9人兄弟の長男!厳格な両親に育てられたシエラレオネでの生活
AYINA あつ
ダボさんは9人兄弟の長男だと伺いました、他の兄弟の世話は大変でしたか?
実際には、下の兄弟2人は日本で生まれました。例えば、日本では9人の子どもを育てることはとても大変だと思いますが、シエラレオネでは親戚が手伝ってくれることが一般的なので、お母さんはそこまで大変ではなかったと思います。
ダボさん
AYINA あつ
ご両親が厳しい方だと伺いました。どのような方だったのですか?
僕の部族では、「親は絶対」という、親と子の上下関係があります。親の言うことに従わないといけませんでした。長男なので、家のことなどすべて任されていました。学校に帰ってきたら、家が広かったので、1,2時間かけて床掃除をしていました。
ダボさん
AYINA あつ
また、父が小売店を営んでいたので、そこの店番もしていました。当時経済状況があまりよくなく、父が海外に働きに行っていたときは生活が苦しかったです。
ダボさん
AYINA あつ
家の掃除を行った後は、水をプラスチックのケースに入れ凍らせ、氷を作ってそれを市場に売りに行っていました。7,8歳の頃だと思います。
ダボさん
AYINA あつ
学校が終わってからそのようなお手伝いをしていたのですね。
日本だと、そのくらいの歳の子どもがするようなことではないですね。楽な環境ではなかったと思います。
ダボさん
AYINAひでき
氷を売ったお金は、どのようなことに使っていましたか?
学費です。フリータウンに2つあった私立の、1つに通っていました。私立なので学費はとても高かったのですが、父は良い教育を受けさせたいという気持ちが強かったのだと思います。
ダボさん
AYINA あつ
シエラレオネでは、食事はそこまでお金はかかりません。ガリー(ウガリ)という、お芋を乾燥させ、水と砂糖を加え膨らませたものをよく食べていました。とても安かったです。
ダボさん
AYINAひでき
シエラレオネでは仕事があまりないので、ある程度の教育を受けていないと、生活ができないです。また、ある程度読み書きができることで、自分の世界がすごく広くなると思うんです。
ダボさん
AYINAひでき
読み書きさえできれば、自分からいろいろな情報にアクセスでき、そこから得られる情報を活用できれば、自分の人生を豊かにすることができると思います。
ダボさん
AYINA あつ
日本では、読み書きができることは当たり前ですよね。だけど、シエラレオネでは文字を見ても読めない人が多いです。
ダボさん
生死を分けたシエラレオネの内戦、命がけで逃げ、日本へ…
AYINA あつ
15歳の時に、日本に来たということですが、きっかけはありますか?
父の仕事の関係で来ましたが、1番のきっかけとなったのは内戦です。1991年~02年まで、シエラレオネでは内戦がありました。
ダボさん
AYINA あつ
内戦が始まった原因はダイヤモンドでした。シエラレオネはダイヤモンドの産地です。しかし、政府はその利益を国民に還元せず、私的目的に使っていました。
ダボさん
AYINA あつ
そのような政府に抵抗するように、反政府グループが立ち上がりました。当初の理念は、ダイヤモンドで出た利益を、市民全員が恩恵を受けられるよう配分しようということでした。
ダボさん
AYINA あつ
でも、いざ彼ら反政府グループがダイヤモンドを手にした時、彼ら自身がダイヤモンドを横領してしまいました。そして、その利益で武器を買い、政府を倒そうという目的に代わってしまったのです。
ダボさん
AYINA あつ
最初は反政府グループを支持していたというダボさん。しかし、彼らがおこなったのは…。
しかし、最終的には反政府グループが行ったことは、何も罪のない市民の虐殺でした。目的は国際世論を仰ぎ、政府を動かすことでした。
ダボさん
AYINA あつ
反政府グループは、まず子どもたちを捕まえ、鉄砲を与え、親を殺させました。そうすると、子どもたちは誰でも殺せるようになるのです。このようにして少年兵を作っていきました。
ダボさん
AYINA あつ
一時期、シエラレオネは世界で最も寿命の短い国として、ギネスブックに載りました。それは、この紛争によって、子どもたちがたくさん死んでしまったことが原因の1つです。
ダボさん
AYINA あつ
僕たちはその当時首都にいました。そこは政府がしっかり守っていたので反政府は入り込めなかったので、安全でした。
ダボさん
AYINA あつ
けれども1996年ごろ、反政府グループの勢力が増して、首都に迫ってきました。僕たち家族は、反政府グループがあと100kmで首都に入ってくるという状況で、ギリギリ最終便に乗り、隣国のギニアに避難しました。
ダボさん
AYINA あつ
当時父が日本にいたので、僕たちはお母さんと逃げました。そして、ギニアに住む場所もないので、みんなで日本に行こうかということで、日本へ移り住みました。
ダボさん
AYINA あつ
戦地から負傷して帰ってきた兵たちを見ると、街のみんなが緊張していました。毎日、「○○人死にました」、「子どもが○○人亡くなりました」と報道がされ、鉄砲の音も鳴っていました。毎日、(反政府グループが)いつやってくるのか、心配で眠れませんでした。
ダボさん
AYINA あつ
僕たちが首都を離れた直後、首都奪還のニュースが入ってきました。本当にギリギリでした。その時の様子をとてもリアルに描いた「cry Free town」という映画があります。
ダボさん
AYINA あつ
その映像がリアルで、もしあのままあの場所にいたら、自分たちも同じような経験をしたかも知れないと思い、毎日泣いていました。この映画は戦争の残酷さや醜さが分かります。
ダボさん
AYINA あつ
またその映画も見てみようと思います。貴重な経験のお話を、ありがとうございます。
おわりに
シエラレオネでの内戦が起こり、間一髪のところで国を逃れたダボさん一家。
そうして向かったのは、お父さんが仕事をしている日本でした。
後編では、ダボさんが日本に来てからの生活をお伝えしていきたいと思います。
《取材=あつよし、ひでき、記事=なつみ、撮影=ひでき》
後編に続く
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